「若者の○○離れ」

最近、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。「最近の若者は、○○も楽しまないで一体どうしてしまったのか?」というのが大まかな主張である。○○に入るのは、退社後の酒、車、野球、海外旅行などだ。しかし、若者の一人として言わせてもらえば、全くもって余計なお世話である。

「若者の○○離れ」は傲慢である

「若者の○○離れ」という発想自体が傲慢である。それは、自分たちが正しくて、今の若者がおかしいという視点に立った考えだからだ。分かりやすく言うと、

「俺たちが若い頃は、みんな○○をやっていた。だから、今の若者も○○して当たり前。」

ということになる。若者からしてみれば、昔の若者が何を好んでいたかなど知らないし、知っていたとしても、それを好きになるかどうかは別問題だ。だから、「若者の○○離れ」などと大人たちに主張されると困惑してしまう。その主張に、何の根拠もないからだ。なんと傲慢なことだろうか。

「若者の○○離れ」は言い訳である

「若者の○○離れ」という発想は、「昔離れできない大人たち」の言い訳である。それは、そもそも正しいものなどないのに、無理に正しいかそうでないかを判断するために必要になる。分かりやすく言うと、

「俺たちは正しいはずだ。だから、今の若者がおかしくなっているに違いない。」

ということになる。生まれた時代も違えば、育った環境も違うのだから、世代間で価値観が異なるのは当たり前のことだ。一方が正しくて、もう一方が間違っているという問題ではない。にも関わらず、「自分は正しい(はずだ)」という信念を基点としてしまうため、「今の若者はおかしい」という結論にいたり、思考停止してしまう。

ほっといてくれ

つまり、「若者の○○離れ」は、若者でなくなった人が無自覚に、自分や自分の価値観を正当化するために使う切り札である。したがって、根拠もなく「異端」扱いされ、断罪される若者にとってはたまったものではない。もう本当に、ほっといてくれ。